昭和四十八年七月十九日 御理解第六十六節
「人間は勝手なものである。如何なる智者も徳者も生まれる時には日柄も云わずに出てきておりながら途中ばかり日柄が吉いの凶いのと云うて死ぬるときには何も言わずに駈けって去ぬる。」
この通りですけれども、信心をさせて頂いておる者、特に人間は勝手なものだがと仰る。勝手をせん、云うなら我ままをせん、自分勝手なことをしない実意な信心をさせて頂けば、これは生まれるにも又は死ぬるにも丁度よいと云うおかげが頂かれる。
此処で熱心に信心される方達の、特にこの生まれるにもそうですね、田植の忙しい時、取入れの忙しい時に生まれるのも合間合間を縫う様にしておかげを頂いておる。
死ぬるにもそうですね。竹内先生ところのおばあちゃん、佐田さんところのおじいちゃん、秋永先生のところのおじいちゃん、最近は最近はと、つい先日は善導寺の原さんところのもう本当に万事万端お繰合わせを頂いてお国替えのおかげを頂いておられるなあと思わなければ居られない。
先日も竹内先生仰って居られるが、とにかく百日祭迄十日十日のお祭り、そして百日祭迄もう本当に土曜か日曜かにずっと当たる様になっとる。百日祭も丁度日曜日に当たりますと云うて居られます。とにかく神様のそういう細やかなお働きの中に、生きるも死ぬるもあっておる。勿論その途中とても神様の万事万端の上、一分一厘間違いない働きを身に感じながら、又表しながらおかげが頂けていると云うのが私はお道の信心だと思うのですけれども、信心がです、その人間は勝手なものじゃがと云われる様に身勝手な信心では駄目だと思うです。
お道の新聞に金光様の御理解が出ておりますが鳥越四郎先生と
云うが、信心させて頂く者はその勝手、自分の勝手を云うてはならん。どこまでも神様を中心にした生活がなからなければならん。
私は身勝手なと云うことは、只自分がおかげを頂くことだけの中心の信心では、これは身勝手と云うものです。ですから、自分本位の信心から神様本位の信心にならせて頂くと云うことです。
五つの願いなんかは、そこんところぴったり来ている訳ですね。 人間の幸せには、とっても必要な体の丈夫も家庭が円満であることも、いよいよ子孫繁盛家繁盛になることも、私共の願って止まない信心なんです。それを只願うだけなら身勝手でしょう。
けれども親に孝行したいばっかり、神様の云うならお喜び頂ける様な生き方にならせて頂きたいばっかりに願うのですから。願うと云っても身勝手じゃないでしょう。神様を中心とした五つの願いと云うことになるのですよ。
そこんにきの同じ願うと云うても神様中心、神様本位かどうかと云うことです。そこには神様本位の信心は、神様はまた氏子本位におかげを下さると云う事実をね。
私は昨夜の月次祭後のお話をさせて頂ながら、終ってその昨夜お話したことの改めて又いろいろ思うてみた。本当に有難い御教えだったなあ、そして実に広い深い意味のある御理解だったなあと昨日私は思わせて貰うて。
西岡先生が昨日前講致しました。その前講の中で親先生の信心を頂くと云うことに、此頃もう熱中しておる。その事に焦点を置いておる。そしていよいよ親先生の信心を朝から晩までこうして一緒に暮らさせて頂いて同じお教会に修行さして貰うて、親先生の信心を見習わせて頂く気になったら自分の信心の目の荒いのに驚いてしまうと云うことを言っとりますが、親先生の信心を頂くと云うことは、そのまま教祖金光大神の信心を頂くことであり、云う人が教祖様から頂いとる御理解です。
「先祖より御無礼致しとりましょうとも許して下さりませい、日々信心致しますから、信心の徳をもって如何なるめぐりもお取り払い下さりませいと云うて願わんせい。」
いわゆる身勝手なことではならない。日々信心致しますからと云うところ、自分の都合の好か時だけ参ると云うのではなくて、いわゆる日々信心致しますから日々お参り致しますから、例えば人間ですから何処にお粗末御無礼があるか分かりませんけど、せめてその日々お参りする。日々信心にならせて頂くと云うところだけは勝手をしてはならん。自分勝手じゃない、そういう信心させて頂けば、先祖からどんなにめぐりがありましょうとも、めぐりの出ようのない程しのおかげを受けられると云うことが感じられます。
例えば難儀の元をめぐりとこう云われとりますが、その難儀も出ようがない。日々のいわゆる身勝手な信心ではなくてです、そういう手厚い信心の徳を受けていく様な日々の信心の徳に依っておかげを頂かれる。
「如何なるめぐりもお取り払い下されと願はんせい。」と、こういうておられます。
ですから、その日々のお参りも例えば・・・日々お参りもできない方もありますけれども、日々の信心と云うことだと思う。それも只自分の都合の好い時だけ拝むと云うのじゃなくてです、それが行の様に間違いのない、例えば善導寺の原さんあたりがです、一家を挙げて・・・初めの間は夫婦、次にはもう一家を挙げて二十何年、二十三年だそうですね。昨日御礼の見えてそう仰っとられました。二十三年間それこそ雨の日も風の日も朝参りを続けられた。奥さんの方はそれより夜のお参りの方も続けられた。一時止んどりましたけど、最近も又夜の御祈念もお参りしとられる。いわゆるこれは、神様とのお誓いが実際に破られる事なしに続けておることは勝手な信心ではないと云うことなのです。
私は今日ここんところをですね、人間は勝手なものでと。
それには私の信心がチグハグな処が有るんだと先ず知らなければいけない。おかげがチグハグになって來る。そのチグハグの信心がおかしい。
それはどういう事かと云うと、今日の御理解から云うと自分が身勝手な信心をしておると云うことじゃないでしょうか。
親先生を頂くということは、親先生の全てを頂くと云う様な私は頂方、いわゆる自分の都合の好いところだけでなくてです、いわゆる神様本位の信心をさして貰う。親先生本位の信心をさして貰う。
だから親先生が右とおっしゃりゃ、いつも右の姿勢がとれれる、左と仰りゃ左の信心が出来る。そこで求められるものは、云うなら信心で云うところの高度な素直さと云うものが必要だと云うことを昨日頂きました。
聞いて頂きましたですね、そういう素直な信心からです、それそれこそ雲の上まで登る道が付いて來るのが、私は素直な信心だと。その素直な信心と云うことは、どういう事になるかと言うと言葉を替えると馬鹿と阿呆で道をひらけと云うことにもなるかと云うて、 言葉を替えると馬鹿と阿呆で道を拓けと云うこといも成るのです。理屈は云わんのです。
私は今朝御神前に出らして頂きましたら、藤山寛美と頂いた。あの喜劇俳優が居りますね。名人がこの人は何が有名かと云うと、阿呆役で有名なんです。今度も東京で今度七代目菊五郎の襲名披露があります、歌舞伎座で。それに相対して何とか劇場お芝居、阿呆祭と云うお芝居をやるです。1ケ月間、大したことだと思うですね。この頃テレビでいつか話してました。
もう役者の生甲斐がここの在るんだと。名優尾上会の菊之助ですね。が、おじいさんの七代目を今度襲名するんです。それも大変な事なんです。そういう大変な格式のあるお芝居を同等なですね、例えば入場料を取って同等の格のあるお芝居小屋でですね、やろうと云う藤山寛美。阿呆祭と銘打ってからのお芝居だそうです。だから、それが今から同時に金光大神の信心を世に表すことである。親先生の受けて居られる様なおかげを自分も一分一厘間違いなく頂いて行けれることにつながるのだ。
親先生を頂くと云うこと。それが身勝手な事ばかりで自分の都合のよいところだけを頂く信心はいけないと云う御教えでしたね、夕べは。
いわゆる今日の御理解で云うと、身勝手な信心。ですから、それは成程親先生も人間ですから、いろんな悪いところがあったり、癖があったりします。けれどもです、好かとこだけ頂こうと云うのじゃなくて、親先生の全てを頂こう、で真似からでも入らせて貰おうと云う様な頂方を、親先生を頂くことになるのではないか。だから、親先生の頂いて居られる様な日々の一分一厘間違いの無い働きをこの様にして合楽教会で表しておる。そういうおかげが又自分の家庭でも頂けるんだと云う。それを熊谷さんの昨日の一時の御祈念の時にお話しましたあの例をもってお話致しましたですね。
ところが実際私の信心にはどうもチグハグなところが出来てくる。これは私とは皆さんと云う意味ですよ。そこで、何故チグハグかと云う事をです、私は思うてみなければならない。昨日は感じでしたね。昨日の御理解は何故チグハグか、例えば私が御心眼に頂いたのに、大きな水差しがあるんです、きれいな。ところが蓋がなくなったか何かで蓋だけが違った色の違った柄のがしてある訳です。ですから使う実用にはそれで結構使っとるわけです。けれども見た目にはおかしい訳です。あの人は信心しござる。自分はおかげを頂いとると思うとるばってん、第三者または信心のない者から見ると、どうもおかしい風に見えると云うことなんです。成程その水差しの水を飲むことは同じなんだけれども、ならそれを人が見た時、第三者が見た時にです、見苦しいと云うか、信心しよってあげな風でよかじゃろうかと云う風に、成程信心じゃなあ、成程金光様の信心ちゃ有難いなあ、あれを見ただけでわかる。あの人に接しただけで分かると云う様なおかげを受なければならないと云うこと
さあ、明日から夏の修行が始まるよ。自分の勝手なことを云わずに、それはいろんな事情もありましょうけれども、
親先生がああ云うて音頭を取って御座るのだから、あれに足並みを揃えさせて頂こうと云う心なんです。素直な心と云うのは、信心で云う素直な心と云うのはそこに親先生が頂くと云うことが云えれるんだ。
親先生を頂くから、そこには一分一厘間違いの無い、親先生が受けられる様なおかげが受けられるのだ。ところが私共の場合です、まだチグハグを感じるならばです、水差しの蓋が色違いをしたり柄違いをしとるものであるから、自分はそれはおかげを頂いて行けましょうけれども、人がみて成程金光様の信心は、素晴らしいと云うことになって来ないのだ。同時にチグハグのおかげが好かろう筈がない。
大抵おかげを頂きよるけれども、このことだけはチグハグになる。ここのところがまだ親先生を頂き切っていないんだという風に素直に頂いてです、親先生を頂きそして、親先生を表すことは自分がおかげを受けると云うことです。
今日は私は人間は勝手なものじゃと云うところに焦点をおいて聞いて頂きました。だから信心さして頂く者は勝手であってはならないと云うこと。身勝手であってはならないと云うこと。いくら熱心に参りよるごとあっても、それはどこまでも自分中心の信心であるとするならば、それは身勝手信心と云うことである。例え毎日お参り出来なくても親先生の信心を頂き切って行くと云う生き方、親先生任せ、親先生本位と云うところに親先生の信心が、皆さん本位の信心になって表れて來る。
それを正確な信心と云うことになるだろう。チグハグでないおかげが受けられる事になるだろう。同時に教祖の御理解を聞いて頂きましたようにです、
「先祖より御無礼致しておりましょうとも、許して下さりませいと日々の信心致しますから」と、
日々の信心を致しますからと、自分勝手じゃなくて、日々の信心が何処迄もムズムズする程楽しいと、こういう訳です。七代目菊五郎とどのくらい自分が実力と云うものを試してみたい訳ですね。それがどういう事かと云うとそれがみんなあの人の役は阿呆役ばかりです。だから、本当の阿呆でないことが分かるでしょうが。自分が一億円か借金を持っている。自分が役者じゃ一番借金を持っている。楽屋に入ると十人位借金取りが来てズラッと並んどる相です。毎日それでも結局平気でやっておると云う訳なんですね。
だから馬鹿と阿呆で道を開けとはね、本当の馬鹿と阿呆になれと云う事じゃないですよ。どんなに利口な人でも賢い人でもです、信心さして頂くことに依って、心がいよいよ豊に大きくなると云うことなんです。だから馬鹿んごとある訳です。いわゆる普通で云うさら馬鹿とか、本当の阿呆じゃないとです。
信心に依っていわゆる寛美と云うことはひろく美しいと書いてあります。藤山と云うことは、あれは藤の花の藤ですけれども、これを富士山と云うて良いでしょう。
富士と云うことは日本一と云うことでしょうが。云うならば最高のおかげを頂く為には、いよいよ寛美の心を頂かなければならない。それこそ、大海の様な広い心。限りなく美しくなろうと云うことは、最近人間の極楽と云うことは、腹を立てないと云うこと。愚痴不足を云わないと云うこと。欲をしないと云うこと。そういう心の状態になった時に貴方は極楽になったと云うこと。藤山寛美とはそういう感じが致しますね。
心が広うなりゃ、腹も立たんでしょうし、心が広くなれば愚痴不足も云わんで済むでしょう。
限りなく美しうなると云うことは、いわゆる我欲は云わんで済むでしょう。限りなく美しい心なんです。
お互いがひとつ藤山寛美を目指さなければいけない。又あの人の芸どころであるところのです、芸の中心であるところの、いわゆる阿呆役の名人にならなければいけないと云うことなんです。それには、なら親先生がさあ、明日から修行ば始まるよと、何処までも神様本位の信心致しますからでなければ、めぐりが出て來る、出て来ようがない程しのおかげになって来ないことは分かりますね。
皆さんそういう信心さして頂きゃ、確かにめぐりが出ようのない程しのおかげ、如何なるめぐりもお取り払い下さりませいと云うて、願わんせと、仰って居られる。願えと云うことは教祖様の心の中じゃ、そういう信心さして貰や、もう難儀なことは起こってこないぞと、めぐりが出て來ることはないぞと。めぐりが借金ならばもうこちらから何時もこう元利揃えてから払いにずっと行きよる様なものだ。日々の信心致しますからと云うことはしかも自分勝手身勝手の信心ではなくて、貴方任せの貴方本位の信心させて頂くと云うなら、成程これならめぐりの出様の無い程しのおかげにつながると私は確信致します。
お互いの信心をもう一っぺんです、大抵熱心に信心しとるようだけれども、身勝手なところはありはせんか、それがおかげの上にチグハグを感じておる様な事ではないかと云うことを、検討して見たいですね。 どうぞ。